東京都 Kさん(45)

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私が内観を体験したのはフリーターを卒業し、正社員としての就職活動を始めようと決意したそんな時期でした。母親が亡くなり、残された父にこれ以上心配を掛けたくなかったということと、新しく出来た彼女との結婚をおぼろげながらイメージするようになったということが正社員として働こうと決意したきっかけだったのですが、それは夢見ていた「ミュージシャンで生計を立てる」という目標を諦めることでした。中学の頃より一途に思っていた夢を無理矢理捻じ曲げようとした時期でもあり、そのため精神的には不安定な部分がありました。私はあまりにも頑なに、悪く言えば他を顧みずに目指し続けていた「音楽を生業にする」という目標を断念しなければならず、正社員として勤勉に働こう、と決意はしてみたものの、心の切り替えがうまくいかず、自分はこれからどういう心構えで生きていけばいいのかよくわからない時期でした。仕事は探そうと思っても、何をやったらいいのか全く分からない。もうすぐ30歳を迎えるいい歳の大人がそんな問題で憂鬱な気持ちになってしまい、なんとなく灰色がかった日々でした。

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内観というのは実際にやってみると極めてシンプルな作業でした。(中略)思い出すだけですから作業自体は単純明快なようですが、これが初めはなかなか難しい。まだ自分が成人を迎える二十歳前後の記憶は思い出せても、幼児期や小学校の記憶などはすぐには思い出すことが出来ません。ここが内観を初めて体験するものにとって最初の難関となるようです。

しかし今になって振り返ると、そういった、すぐには思い出せない古い記憶の中の自分、および自分と深く関わっていた家族などのことを思い出す、ということは内観体験にとって非常に大事なプロセスであった、と感じます。それほど自分と家族との古い体験を徹底的に思い出すということは驚きの連続という感じでした。

何となく自分の中では解決、そして完結させ記憶に収まっていた思い出が、内観のプロセスを踏むことで全く別の見え方で思い出されるのが不思議でした

私は、母親には少なからず愛されてきたという実感をぼんやりと抱いていますが、父親に対しては中学生の頃から親しい感情を抱けず、何となく父から距離を取って避けたりして過ごしました。父は一体何者で自分に対して何をしてくれているのだろうか。恩知らずにもそういう疑問すら抱いていました。

しかし集中内観をした後は、父がどういう気持ちで母と結婚し、どういう気持ちで子供を作り、どういう覚悟で生きて、どれだけ家族の為に真面目に働いてくれていたのか、ということが段々と、しかし確実な印象で胸に迫ってきました。眼が節穴だったとはよく言いますが、まさにそんな感じで、父親に対しての私の態度は不適切だった、と非常に身につまされる思いでした。父が私に与えてきてくれたことを、私は故意に見ないようにしていたのかもしれない。集中内観で振り返ると父は本当にたくさんの宝物を僕に残してくれていたのです。僕は内観体験後、確実に父との距離が縮まりました。今では父の話を聞くのも私が父に話すのも以前よりも格段とスムーズにいくようになりました。

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 私は大学を出て「ミュージシャンを目指す」という進路のことで両親に反対されてから、両親に対して少なからぬ隔たりを抱くようになっていました。家を飛び出してアルバイトをしながらバンド活動をし、両親とのしがらみを遠ざけ、音楽に明け暮れる日々を送っていたのです。私は自分の両親がどうして我が子のやろうとしていることを素直に応援してくれないのだろう、と半分は怒りの感情に支配されていました。

 

しかし内観で自分が生きてきた過程を振り返ると、私の親に対する態度の方が明らかに子供っぽく思慮に欠けていたということがよく分かったのです。また私の進路を反対していた親がその時どういう気持ちだったのか、ということを改めて考えてみると、息子を突き放さればならなかった両親の苦悩がありありと思い浮かぶのです。そして内観を繰り返していくうちに今まで見えなかった両親の気持ちが見えてきました。「子供の幸せを願ってくれない」と私は両親のことを不快に感じていましたが、それはとんでもないことだった、と思いました。それまで、いかに私は両親に温かくのんびり、幸せに育てられてきたのか。どれだけ愛情を注がれ、それだけ迷惑や心配をかけてきたのか、ということを痛感させられたのです。ちょっとした意見のズレから始まった僕の両親への不信感が、それ以前に両親が私に与えてくれていた色々な親切をすっかり記憶の外に追いやってしまっていた、ということに気づかされました。それまでは当たり前だと思ってやってもらっていたことが、振り返ってみると何故そこまで無償で献身的に世話してくれていたのか、それが非常に尊いことだったように思い出されるのです。

進路のことで両親と揉めてしまった時、私は「反対されている」という重圧にただ感情的になってしまい、半ばヤケクソの気分で家を出ました。ですからその後は時々実家に呼ばれて両親と会っても心をオープンにできず、やはり両親を敵視してしまう姿勢を崩せませんでしたが、逆に両親の立場からしたら、どれだけ辛い気持ちで異を唱えなければならなかったのか、その時の複雑な心境を想像せずにはいられませんでした。母はその時に私に「言う事が聞けないなら一人で生計立ててやってけ」と母もヤケになって涙交じりの声で言いましたが、それは大変苦しいことだったに違いないと思いました。私は、「自分の人生を親に否定された」ということにショックを受け、感情的になり、確かに今思えばその時、正当に両親と話し合おう、という気持ちすら持てていませんでした。私が家を飛び出して一人暮らしを始めてからも、度々母は私の安否を気にして、差し入れをしてくれたり、faxを送ってくれたりしました。私はそういう母の気遣いを半分は有難く感じてはいましたが、半分は素直には喜べなかった。「一人でやってけ」と突き放したくせに必要以上に心配などしてきて、母の方が矛盾しているのではないかと、ひねくれて考えたりしていました。

 

しかし先ほどのように改めて自分の人生と、その中における私の家族のことを思い返してみると、私はあまりにも多くの宝物を両親からいただいていたのだ、ということに気づき、感謝の気持ちでいっぱいになりました。

 私の母は3年前にガンで亡くなりましたが、その時はさすがに相当なショックを受けました。自分は親の反対を押し切って一人頑なに勝手な道を歩んでいたので、「自分は親不孝者なのだ」という劣等意識をいつも卑しく抱いていましたが、きっといつかはまともな親孝行をしてやるぞ、という誠意も心の底では持っているつもりでした。しかし現実は自分の考え方が甘かった。そんな風に、自分の思い通りには人生は進まない、という事実をその時身をもって味あわねばなりませんでした。

​ 母のガンが発覚して動揺した私は慌てて看病の日々を送りましたが、ようやくその段階になって初めて親のありがたみに気づきました。もっと早く素直になれていたらもっと母親との時間を有意義に共有できていたかもしれない。もっと早く内観を体験していたらもう少しまともな親との接し方ができたかもしれない。後悔しても仕方ありませんが、そのように思えてなりません。

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後になって内観をしてみた時、(中略)私はくっきりとした母親の表情を思い出したり、細かい小さな些細な思い出も拾い集めることが出来ました。恐らくそれは思い出し方に違いがあるのだろうと思います。母がガンになった時に慌てて思い出そうとしていた光景は飽くまでも自分視点で手繰り寄せた光景でしたが、内観のプロセスをたどって思い出した時は不思議と視点が変わって、もう少し違った思い出の捉え方が可能になります。そんな風にして思い出したささやかな小さな小さな思い出が宝物のように思い出せたりしたことは非常に不思議でしたし、私はもう一度母のことを見つめ直せてかなり救われた気分になれました。

普段私は自分のことを振り返ったり、反省したり、そういうことを少なくとも日常的にやっていたので、内観で何がそんなに変わるのかな、と正直はじめはそう思う部分もありました。これ以上何か反省することがあるのだろうか、とタカをくくっていました。しかし実際内観をやって一番痛感したことは、そのように思って私が繰り返していた日々の反省と、内観をやってたどり着く反省とはまるで深さの質が違う、ということでした。

日々の反省ももちろん大切なことですが、集中内観というのは、外界との接触を断ち、意識の深いところまで潜り込んでいくので、日々の反省では到達できないような自己分析が出来るのだと思いました。(中略)内観中は過去のことを、自分をも含めた俯瞰図のように、上の方からの視点で眺めるような、そんな感覚で振り返ることが出来るので、過去の自分の行動が意外なほど冷静に見えてくるのです。そして過去の自分の行動がどれだけ感情的でエゴに満ち溢れていたかがはっきり分かってくるのです。(中略)冷静さを失っていた自分のおかげで迷惑をかけてしまった相手などには非常に申し訳なかったな、と辛く悔しい気持ちになる反面、その相手(私の場合ともすると社会)に対しどうしようもない感謝の気持ちが心の奥底から沸々と湧いてくるのでした。その感謝の気持ちの出現はきっと私だけではなく内観を体験した人には標準的に訪れる素晴らしい癒しの体験なのではないかと私は感じました。

人間誰しも謙遜の気持ちというモノを少なからず所有しているものだろうと思います。内観をするとただひたすら謙遜の気持ちに満たされますが、内観で得る謙遜の気持ちは、僕が今まで謙遜だと思っていたような気持ちとは別世界のモノでした。そしてそんな風にして思った素直な気持ちを、研修所の先生にお伝えするその時、お伝えするまではおぼろげだった謙遜と感謝の気持ちがどっと真実味を増して迫ってくるようでした。言葉にして人に話すという行為に魔法があるのでしょうか。先生は静かに私の感じたことを一つ一つ丁寧に聞いてくださいました。そしてその行為を繰り返すうちに先生にお伝えするといいうプロセスがそれだけで浄化作用のような行為になってゆくのが分かりました。涙を流すようなこともありましたが、やはりその後やってきたなんとも形容しがたいすがすがしいい気持ちは今でも思い出すことができます。

集中内観を体験した後、私はまた自分の日常の生活に戻っていきましたが、やはり内観をやる前とやった後とでは、自分の心の状態は確実に変わった気がします。自分が生きているのがどれほど奇跡的なことか、そうやって自分が奇跡的に生きている背景にはどれだけ奇跡的な周囲の人の助けがあってのことだったのか。様々は対人関係に関する感謝の気持ちが心の底で常に燃えている感じがします。対人関係だけに限らず、私が生きて息をしている、たったそれだけのことでさえ感謝の念がわいてきます。それは結局自分のエネルギーをプラスの方向にもっていきますし、実際家族との関係も、恋人との関係もこれまでよりうまくいっています。仕事に対する気持ちも上昇しましたし、今も続けている音楽活動もあからさまに調子が良くなりました。

最後になりますが、集中内観を体験できたことは私の人生において非常に大きな財産になりました。内観を私に勧めて下さった友人、沖縄内観研修所で沖縄内観研修所で温かいお世話をしてくださり、3度の心のこもった美味しい食事を用意してくださり、私の内観を支えてくださった平山先生ご夫妻にそれぞれ感謝いたします。

​※感想文より一部抜粋

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